「先輩!」
久しく聞かなかった声を耳にして新城は足を止めた。夏の日差しのきつい時分、振り返ると造作のいい顔を笑みでゆがませて駆けて来るかつての後輩の姿があった。
「西田」
店先に向いていた体をそちらに向け、黒い影の中に入ったまま、後輩が立ち止まるのを待つ。
「お久しぶりです、先輩。どうしたんですか? こんなところで」
配属された部隊が違うので、しばらく顔をあわせてなかった。だからこそ、偶然出会ったことによるこの問いかけは自然なものではあったのだが、今回に限っては、例え今日の朝に会っていたとしても問い掛けずにはいられなかっただろう。
新城がいたのは、花屋だ。
西田は物珍しそうな表情を隠しもせず、色とりどりに並べられている花々と新城を見比べる。
「それはこちらの台詞だ。君こそこんなところでどうしたんだ?」
「俺は────っと」
ばつが悪そうに口をふさぐ。それを見て、新城は片眉を上げて、にやりと笑った。
「構わない。どうせ君も休暇なんだろう。こんなときにまで軍隊風に呼ばなくてもいいさ」
軍人は一人称を『俺』や『僕』とは使わない。『自分』が模範的な言い方だ。
「はは、有難うございます。俺はその通り、久々の休暇をいただきまして、皇都に遊びに来ていたんですよ。ついでに先輩の所へお邪魔しようかとも考えてました」
「そうか、ではここで会えて良かったかもな。僕は今日、知人の家に行くので、夜まで帰らないところだったんだ」
「知人? 誰ですか? ……まさか先輩、女の人ですかぁ?」
新城の言葉に、改めて花屋を見直した西田は、新城に負けず劣らず意地の悪そうな笑みを爽やかに浮かべた。
「もしそうだとしたら、帰るのは明日だろう。あいにくと違う。君も知っている相手だよ」
西田のからかいもどこ吹く風、さらりと受け流して新城は、決めたらしい花を店の主人に包んでくれるように頼む。
「君はもしかしたら、逢うのは数年ぶりかもな。覚えているか、幼年学校で、我々生徒を優しく優しく、それこそ気絶し、倒れこむまで軍のなんたるかを叩き込んでくれた助教を」
かぁんと晴れた夏の暑さの前に体はほてるものだが、西田は正反対にさぁっと青く青くなった。
「──────まさか」
「そのまさか、だ。現在は助教ではなく軍曹だがな」
先程よりも、子どもが見たら逃げ出しそうな笑顔で、新城は言った。西田の反応が顕著で面白い。
「猪口軍曹。……君も一緒に来るか。久しぶりだろう?」
西田の脳裏には、今思い出しても叫びたくなる過去の出来事がまるで走馬灯のように飛び交っていた。
「おや、これはこれは。お久しぶりですね、『西田少尉殿』」
「……どうも、お久しぶりです。えーと、軍曹、でいいですか?」
「ええ、構いませんよ。あと敬語でなくとも結構ですよ。普段どおりにしてください」
「そうだな。君のかしこまった態度は気味が悪い」
二人揃って幼年学校時代の元助教の家へ向かい、そこで出迎えてくれた大柄の現軍曹は、相変わらずの強面ににこやかな笑みを浮かべて言った。
「しょうがないじゃないですか。まだ俺、少尉になってそんなに経ってないんですよ。いきなり自分の倍はありそうな年上の下士官に上官らしく振る舞えって言っても難しいですよ。軍にいるならまだしも」
「そうか?幼年学校時代は上級生であろうとも容赦がなかったように見えたが」
「あははは、そりゃあ、身近に面白い上級生がいましたからね。その人を見ていたら、他の先輩方は幼く見えて、とても『上級生』に思えなかったものですから」
新城が意地悪く言うと、西田も負けじと言い返す。この先輩にしてこの後輩ありき。二人のやり取りを眉尻を下げながら猪口は見ている。
「まぁ、こんな外でもなんです。どうぞ中に入ってください」
「ではお邪魔させていただく。────その前に、これを」
差し出したのは、先ほど花屋で買った真白い清楚な花だった。
「奥方に」
柔らかな花弁の花束を見てから、猪口はそっと目を伏せて、にこり、と深く笑った。
「──────……これは、どうも」
「なんだ、先輩。軍曹の奥さんへの花束だったんですか。それなら最初から言ってくれればいいのに。俺も水菓子買ってくればよかったなぁ」
「いや、お気持ちだけで十分ですよ。さ、こちらへどうぞ」
「ああ」
「お邪魔しまーす」