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サトーの子供時代の話。




 走れ、走れ、走れ。



 この道を選んだのは己だ。
 この選択をしたのは己だ。
 こうなることを望んだのは己だ。


 ────全てを分かっていて決めたのは、己だ。



 旅人は走る。息を切らし、喉に鉄の味を覚えながら、それでも肺に空気を無理矢理送り込んで、走る。
 水の流れる音を聞きつけて、暗い夜の森の中を走る。ふ、と湧き出で流れる清らかな水の道を見つけ出し、思わずしゃがみ込んでそこへ顔を突っ込んだ。清冽な冷たさと染み入る甘みに我を忘れそうになるが、飛沫を散らして顔を上げ口元を拭う。
 改めて流れに手を差し入れすくい、顔を洗うと立て続けに腰に巻いていた布切れで水気を拭き、そのまま流れに布を浸した。ざっと血を拭き取り、それほど入っていない荷物を解いて、風呂敷を裂き、血の止まらない場所にきつく縛る。
 解いた荷物から幾つかの物を懐に押し込むと、再び走り始めた。
 その場所にいた形跡を残すのは愚だが、今はそれ以上に逃げるのが先だ。水を飲み簡単な手当てもしたので、気分は妙に落ち着いた。体力は戻らないが、それでも足は駆けるのを止めない。

 どれほど走ったか。いくら走っても追いつかれると言う恐怖は消えない。あの僧が相手だとなおさらだ。あの僧は郷屈指の実力者で、その実力は、旅人のよく知るところだった。
 けれども捕まるわけにはいかない。
 捕まれば、例え理由がなんであろうと、死、あるのみ。
 大抵の郷はそうだった。郷で育った者を、一人で外へ出しては郷の情報が漏れ出すことになる。それは一つの滅びを呼び込みかねない。門外不出でいなければならない。だからこそ、抜け出すものには、相応の死を。

 旅人は、殺される、と言うことは大して怖くはなかった。
 恐ろしいのは、何も成し遂げずにこのまま死ぬことだ。目的を果たさず、託された想いも成就させずに死ぬことだ。それさえ終われば、あとはとりあえず、どうでもよかった。
 別に死んでもいいわけではない。もしこのような状況でないのなら、なるべくなら死にたくない。どうせなら面白おかしく生きて老衰で死んでみたいと思っていたが、どうせそれは無理なことなのだと幼い頃から、知っていた。
 碌な死に方はしない。けれども、どうせなら、とふと思うのは人として当たり前のことだ。それぐらいは、『人並み』に、あった。
 しかし己はこの道を選んだ。元より生まれたときからあの郷で育ってあの郷に生まれた者が辿る道を歩んで、それを苦とも嫌とも思わなかった。


 ──────あの時までは。


 だが、己はその道からはずれ、別の道を選んだ。
 自ら望んで、選んだ。


 なるべく葉音をたてずに走る。あと一里も走れば大きな街があるはずだ。そこに潜めば、しばらくはやり過ごせる。走れ、走れ、走れ。
 懐を抱えるように走りながら、思い出す。約束を。
 今際に零した相手の言葉。




 ──────生きて。







 丘に差し掛かる。眼下に広がる、人の住む家の密集。
 知らず息が漏れる。
 もう少しだ。


 掟を破らずとも生きていけれた。けれどそれはあの時の己にはもう無理だった。郷が嫌なわけではない。だが、もう、あそこにはいれなかった。それだけだ。
 郷を抜け出してしばらくは隠れ忍んでたとは言え、平穏ではあった。定住することはできなかったが、様々な土地を歩き回り、あちらこちらで人とふれあい知識や見識を深めるのは面白かった。
 途中、どうしても落ち着かなくてはいけなくなる出来事も起きたが、それはそれで、日々が新鮮だった。
 それでもこの国全体が慢性的な戦の病に罹っている事は分かっていたから、楽しいことばかりでもなかった。けれど、今までにない『しあわせ』と言うものを、感じずにはいられなかった。

 だが、事態は急変する。
 世の中は甘くはない、という現実は正に道理。
 追っ手がきた。それも、郷一番の破戒僧。よりにもよって、だ。

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