ここ数日、ヒロは気分が悪かった。
最初は、数年前、親友を助ける方法を探すために祖国へ戻っていったかつてのムロマチ軍軍師の、自身の代わりと生み出したクローンが、最近、目に余る行動を取ってきているせいかと思ったが、どうにも違うようだった。
腹立たしい、ストレスと言った類の気分の悪さではなく、何かを吐き出したい衝動にかられるようなものだった。おまけに体調も優れない。寝込むほどではないのだが、何となくだるい。
「大丈夫か?姫さん」
それは傍にいるサトーも気付いており、二人きりの時にそっと聞いてきた。
「ああ……。そんなにつらいわけじゃないんだが、な。どうにもすっきりしない」
「酒飲みすぎたーってわけでもないだろうしなぁ。アンタ、あんまり強くないし、そんなに飲まねぇしな。としたら、他に考えられるっつたら、疲れ、かね。最近、前にも増して忙しいだろ。一眠りしてきたらどうだい?」
「そうだな……」
「真面目なのはいいけどよ、あんま無理して本当に倒れちまったら、それこそ大変だぜ?何日も寝込むより、今、休息取った方がいいって」
少し乗り気ではない声に、サトーは軽く肩を叩く。ヒロは新生魔王軍時代もよく無茶をしており、その度に(特にチクに)注意されていた。もっとも、あの頃は多少の無茶をしなければ生き残れない状況でもあった。だが今は、大陸は統一され、その事後処理で追われるとは言え、彼女のほかにも優秀な人材は揃っている。それこそ、彼女よりも外交や内政に長けた者がいるのだ。
「んー……そうだな、そうするか……」
「そうそう。何かあったら起こしてやるから、ゆっくり寝てきな」
「ああ」
サトーの言葉に、軽く伸びをしする。
「しかし、今日は珍しく素直に聞いてくれんだな。そんだけだるいってことか?」
「一言多い!」
最後に一発、サトーに蹴りを入れて、ヒロは自室へと戻っていった。
「ヒロ殿、どうかなされましたか」
途中、見回り中らしい不如帰と出会った。ぼんやりとしていた様子のヒロに疑問を感じたのか、尋ねてきた。
「いや、何だかだるいから、部屋に戻って一眠りしてこいとサトーに言われてな。お前は見回りか?」
「はい。………………」
「何だ?私の顔に何かついてるか?」
じっとヒロを見つめる不如帰に居心地の悪さを覚えながら問いかける。
「……いえ、そういうわけではないのですが。………………。ヒロ殿」
「ん?」
「不躾をお許しください。単刀直入にお尋ねいたします。最近、月ものはきておられますか」
「へっ?」
本当に単刀直入すぎる。思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、不如帰の言葉を頭の中で反芻し、内容をよくよく噛み砕いて消化する。そして不如帰に少し背を向けて、指を折りながら考えてみた。
「………………そういえば、しばらくきてないな」
「………………」
「でも、私は遅れたり早く来たりすることがしょっちゅうだぞ。戦時中はそうだった。大戦が終結してからは、そんなに狂うことはなかったけれど……」
不如帰はヒロの答えに、無表情ながらも、眉をしかめた。
「……ヒロ殿、一度、医者に診てもらってくださいませ」
「何?」
「はっきりとしたことはまだ分かりませんが、もしかしたら、と言う事がございます。ですから、診てもらいましょう」
「お、おい、いったい何なんだ?私はそんな、医者に診てもらうほど悪いように見えるのか?」
「そういうわけではございません、が、見て分からないからこそはっきりとさせる必要がございます」
真っ直ぐにこちらを見据える不如帰の静かな迫力に、ヒロは口を尖らせるが、確かに体調は優れないのは事実で、何ともない、とは言い切れない。面倒だな、と内心思うが、今の不如帰を振り切るのはそれ以上に手を焼きそうだった。
「……分かった。そこまで言うなら、一度診てもらうか」
「有難うございます」
そして。
「………………………………」
ヒロは混乱の局地にあった。
不如帰と共に医者に診てもらったはいいが、その診断結果は、想像もしないものだった。いやしかし、そうなってもおかしくないことをしてはいるのだし、だが魔族はその体質ゆえ、そうそうそうなることはないはずだし、事実今までもう10年近くそういう関係になって経つけどならなかったし、けれど今実際医者にそう言われてしまったし否定のしようもない現実でああもう何をどうすれば。
医者に事実を告げられた後、半ば放心状態だったヒロは、不如帰に連れられて自室へ戻っていた。去り際、不如帰が何か言っていたようだったが、よく覚えていない。それほど頭が回っていなかった。
「………………この、私が」
ゴルデンに移ってからの部屋の天上を、ベッドに寝転がって見上げる。石造りの、どちらかと言えば無機質な天上は、かつて慣れ親しんだものだが、ムロマチの木造と畳の部屋が妙に懐かしい。
全く関係ないことに考えが行くのは、現実逃避だろうか。
現実逃避。
「………………いや、な、わけじゃ……ない」
ポツリと呟いた。
自分の身に起こったことが、嫌だというわけではなかった。ただ、あまりに突然で、あるとは思っていなかったことだけに、気持ちが追いついていないようだった。
かと言って、両手放しで喜べるのか、と言われると、躊躇いがあった。同時に、怖い、とも思った。それは、このままでいけば、確実に訪れるであろうことと、何より、このことに深く関係のある相手の反応だった。
「………………」
あいつはどんな反応をするんだろう。
ヒロはそう思うと、ざっと血の気が引いた。拒否、されるかもしれない。
そう思ったが、慌てて頭を振る。あの男はそういう男ではない、だろう。……だが、違う意味で、受け入れてもらえないかもしれない。
あの男は、サトーは、妙なところで一歩引くところがある。ムロマチへきた時も、ヒロだけを預け、サトー自身は国を去った。守れる力がないからと。強さを身につけ、再び目の前に現れても、すぐにいなくなろうとした。
想うあまり、今の自分は相応しくないと考えるのか、一歩引き、出てこようとしない。
「………………………………」
何だか、だんだん腹が立ってきた。
ヒロは目を覆っていた右手を握り締める。
サトーが再び去ろうとした時も、半ば自分が強引に引き止めた。そうしなければサトーは絶対にヒロの傍にいようとはしなかっただろう。
腹が立つ。物分りのいい大人にでもなったつもりか、あの馬鹿。
ふつふつと怒りすらわいてくる。そんな相手に、一時でも不安になった自分が酷く臆病に思えた。
と、ヒロが悶々と考えている最中に、コンコンと、ドアがノックされた。
「姫さん、入るぜー?」
聞こえてきたのは、現在、ヒロを怒りに燃やせているその張本人だった。
「不如帰が、すぐに姫さんのところ行けって言うからよ。どうしたんだ?何かあったのか?」
少し心配げな声のサトーに、ヒロはベッドから起き上がり、つかつかと歩み寄った。そして、
「サトー、ちょっと頭を下げろ」
「へ?」
にっこりと笑顔で言うヒロに、何となく空恐ろしいモノを感じつつも、拒否したらなおさら怖いことになりそうな気がして、サトーは素直に頭を下げた。すると、間髪いれず、
「うごッ?!」
バキィッ!!という効果音が入りそうなほど勢いよく、サトーの左頬に、ヒロの右拳が入った。ヒロは見た目の小柄さからはあまり想像できないが、肉弾戦もかなりのもので、無防備にその拳を受ければ、吹っ飛ばされる。当然、サトーも例外ではない。
「………………ってぇえー!!!い、いきなり何すんだ、姫さん!」
「うるさい。やかましい。お前の声を聞いたら腹が立ったから殴った、それだけだ」
「何だそりゃ!理由になってねぇじゃねぇか!!」
さすがにいきなり殴られてはサトーも怒る。起き上がってヒロに抗議するがヒロはそっぽを向いて取り合わなかった。
「おー、いて、ちくしょう、何だってこんな目に……」
「フン。………………………………おい、サトー」
「あんだよ」
何だかサトーを殴ってすっきりした。ヒロははらを括る。サトーがどういう反応をしようが、その時はその時だ。
「お前、今度父親になるぞ」
「へ?」
あっさりと言われた言葉に、サトーはきょとんと目を見開く。その様が妙に幼くて、ヒロはおかしくなった。それから、一度目を伏せ、自分の中で改めて決意をすると、サトーを見上げた。
「……子供がな、できた」
「………………子供?」
「そうだ。お前の子だ。……言っておくが、お前に何と言われようと、私は産むぞ」
「え、あ、いや、ちょ、ちょっと待ってくれ」
困惑したような声でサトーがヒロの言葉を制するように手を上げる。ヒロは一瞬、息を飲んだが、きっ、と決意も新たに言葉を続けた。
「産む。今しっかり決めた。絶対産むぞ」
「だ、だからちょっと待てって!」
「何だ」
拒否されるのか、受け入れてはくれないのか、という不安が頭をもたげるが、ヒロは顔を伏せたりはしなかった。だが、サトーの口から出てきたのは、違う言葉だった。
「…………姫さんが産むのか?」
「……当たり前だろう。何を言っているんだ、お前」
先ほどから自分が産むのだと宣言しているのに、何を聞いていたのか、と眉を寄せる。
「……それとも何か。お前は私以外にお前の子を産む予定の相手でもいるというのか?」
「んなわけねぇだろ!!!!てぇか、ちょ、その左手!!こんなところで魔界の炎呼ぶなよ!!」
それはそれは良い笑顔で微笑んではいるが、掲げる左手には赤黒い炎が今にもサトーを飲み込もうと燃え盛っていた。普通に怒りを表しているよりも数倍以上恐ろしいその笑顔に、サトーは全力で否定した。
「そうじゃなくて!!!……これ言ったらまたアンタに怒られそうだけど、その、……アンタが子供を産む、なんて、あんまり想像つかなくて、よ」
「………………悪かったな」
自分自身でもそう思っていたので、ヒロは不満を表すだけに留めた。
「しかも、それが俺の子供、なんだもんなぁ……。そ、……っか……。俺の………………。………………」
口の中で何度も反芻して、サトーは深く息をつく。驚きと混乱がようやく治まってきたようだった。
「あー、何てぇか、うん」
「何だ?」
不意に腕が伸び、サトーはヒロを抱きしめた。
「お、おい」
突然の抱擁に、少し頬を染めながら、ヒロは怪訝そうな声を上げた。深く抱き込まれ、顔を上げることはできない。
「すっげぇ、嬉しい」
くったくない、笑いを含んだ声が上から降ってきた。
「正直、いきなりすぎてまだあんまり実感ねぇけどさ。……嬉しいな。やっぱ」
「そ、そうか?………………そう……か?」
「うん」
同時に、先のことを考えると、不安も付きまとう。
サトーは、ヒロが大魔王の娘である、と言うことは実はあまり気にならなかった。例えなんであろうとも、サトーは、ヒロの力になり、守りたい、と言う考えは変わらないからだ。だが、本人同士はよくとも、周りからの影響はあるだろう。自分へはともかく、自分のことでヒロや、生まれる子供がとやかく言われるのはいい気分はしない。それを承知で一緒にいるが、甘んじて受け入れようとも思わない。
────だが、サトーはヒロには言えない安堵もあった。
これから先。いつか訪れるだろう、抗いきれない、彼女との別れ。己の命の終わり。そのあとを託す子が、できたと言う安堵。
どう足掻いても、魔族と人間の命の長さの差は縮まらない。ヒロは人間とのハーフで、おそらくは純粋な魔族よりは短命だろう。しかしそれでも、軽く人間の生を凌駕する。サトーは長くてもあと50年から60年しかない。たった、それだけだ。
けれど、子供が生まれたら。その子が自分の代わりにヒロの傍にいてくれるだろう。その子が自分の伴侶を見つけ、子をなせば、また彼女に新しい家族を与えてくれるだろう。まだ生まれもしない子供に、自分の望みを押し付ける形になってしまう。子供がそれを願わないのであればしょうがないけれど、願わくば、ヒロを支えてほしいと思う。エゴの塊だ。
けれど、どうか、と願う。血の繋がった家族を失った彼女に、彼女の生が終えるまでの繋がりを。この時代、親しい者に見守られ、老いて天寿を全うすることは少ない。だが、それでも少しでもいいから長く彼女が笑っていてくれればとサトーは願う。
「あー、ちくしょう、俺の子かぁ!顔がにやけるなこりゃ」
「何だそれは。……まぁ、喜んでくれるなら、嬉しいな、私も」
「あったりまえだろ!一番惚れてる相手が自分の子供産んでくれるんだぜ?んー、どっちかな、男か女か」
「私は……どっちでもいいな。あ、でもお前に顔が似た娘は可哀想だ」
「うっわ、ひでぇ言われ様。父親似の女の子は幸せになれる、とか聞くけどなぁ」
「性格が似るならいい。だがお前の顔で娘は……うん、可哀想だ」
「悪かったなぁ。ま、俺もどっちでもいいや。元気に育ってくれりゃ文句なし」
「……そうだな」
くすぐったそうに笑いあいながら、お互いの肩口に顔を寄せる。満ち足りる充足感を覚え、暖かいものが胸に込み上げてくる。
その、しあわせと呼ぶであろう想いに、泣きたくなるが、二人は額を付き合わせ、笑った。
時は1016年。帝国より出奔する一年前。