「あら、まぁ……」
それを持ってきたのは長年仕えていた侍女長だった。手の平に簡単にのってしまうそれは少しだけくすんでしまったが、懐かしい記憶の姿そのままに目の前に現れた。
クリアスタ王国女王ミュラは、それを受け取って顔を笑みでほころばせた。
ミュラが呼んでいると聞いたガンマッハは逸る気持ちを抑えつつ、大股で廊下を歩いていた。特に急ぎの用事ではないらしいが、ミュラが私用でガンマッハを呼ぶことは実はあまりない。と言うのも、ガンマッハは毎日ミュラの元へ定期報告や様々な伝達をしなければならないし、それに加えて、30分から1時間ほど、仕事以外の話をする時間を作っているからだ。だから、よほどの用がない限り、ミュラの方からガンマッハを呼ぶことはない。
それが、呼ばれた、と言うことは何かあったと言うことだ。けれども、急ぎではない。いったい何なのだろうと思いながらも、ガンマッハは慕う君主の元へと足を急がせた。
「ミュラ様、ガンマッハ様が参られました」
ミュラの部屋の側に仕えている従者がガンマッハの来訪を伝えると、中からどうぞ、と声がした。扉を開けて入ってみれば、ソファに腰掛けていたらしいミュラが笑顔で立ち上がってガンマッハを迎えた。
「急に呼んでしまってごめんなさい、ガンマッハ。来てくれて有難う」
生来体が丈夫ではないミュラだが、今日は顔色もよく、朝からベッドから起き上がっていた。今も変わりなく、にこやかな笑顔はまさに花が綻ぶようだった。
「いいえ、そろそろお伺いしようと思っていたところでしたから。……それで、ご用とは何でございましょうか」
「はい、あのね、……その、思わず呼んでしまったのだけれど、本当、そこまで急ぐ話でもなくてね? だけど、貴方に見せたくて……」
改めて言おうとした時、何やら自身の行動に恥ずかしさを覚えたのか、ミュラは少しばかり頬を赤く染めて、意味もなく手を合わせたり指を絡めたりしている。そうしていると歳相応の少女に見えて、ガンマッハは微笑ましく思い、その愛らしさに仮面の奥の目を和ませた。
「私に見せたいもの、とは何でしょう?」
「ええ、これなんだけど……」
そう言って、テーブルの上に置いてあった箱を見せる。お互いソファに向かい合って座ると、ガンマッハはその箱を受け取った。蓋を開けてみればそこには、可愛らしい猫のブローチが納まっていた。
「これは……」
見覚えがあった。これは。
「覚えている? 昔、私が小さい頃に貴方がプレゼントしてくれたブローチ」
そうである。ミュラがまだ十にも満たない頃、ガンマッハが城下町へ行ったときに手に入れた物だった。
猫、と言ってもどちらかと言えば幼い子が読む物語に出てくるような、デフォルメした外見の赤茶の猫だった。ピンと尖った白い耳とつぶらな瞳が可愛らしい。つるりとした表面は年月のせいか、少しだけ色がくすんでいるように見える。
どうしてそれを手に入れたかと言えば、幼い頃から体の弱かったミュラは動物を飼うことができなかった。触れ合うことはできるが、長く共に暮らすことは難しい。だから、代用になることはできないけれど、ほんの少しでも寂しさを紛らわせることができればと、購入したのだ。生きている猫のように呼べば返事をしたり体を摺り寄せてくることはない。けれど、小さなブローチであるから、常に身につけておくことができる。生き物と無機物は比べることなどできないが、ガンマッハは何かを彼女にしたかった。彼女の笑顔を見たかった。
思えば自己満足の行動ではあったけれど、それを渡した時のミュラの反応は今でも覚えている。
「貴方がこれをくれた時、本当に嬉しくて、それからいつもずっと付けてたのよね」
「……はい。覚えております。ミュラ様はとても喜んでくださり、私も買って良かったと思いました」
「ええ。だって、可愛いし、猫は好きだったもの。それに、貴方が選んで、私に買ってきてくれた、と言うことがとても嬉しかったの」
「……勿体無いお言葉です」
照れたように笑うミュラの笑顔に、少し目を伏せてガンマッハは笑みを零した。
「ですが、これは確か……」
箱の中のブローチは、ずっとそこに納められていたかのようだが、ガンマッハの記憶では、このブローチは確か。
「……そう、なくしてしまったのよね。いつもずっと付けていたから、どこかで外れてしまったみたいで、気がついたらいつの間にか……」
なくしてしまった、と気がついた後のミュラは大変だった。ブローチを探して城中を歩き回ったのだ。心配した侍女たちも手伝って探したが、結局ブローチは見つからなかった。どこを探しても見つからない、と言う事実に幼いミュラは珍しく声を上げて泣いた。普段、悲しいことがあっても、声を上げるほど激しく泣くことがなかった。だのにその時は、侍女や乳母がどんなに宥めても泣き止まず、慌てて呼ばれたガンマッハを見て、何度も謝って、そしてようやく泣き疲れて眠った。
「……とても大切だったから。せっかく貴方がくれたのになくしてしまって、悲しくて……」
「……それほどまでに大切にしてくださって、私も嬉しい限りです。しかし、その時になくされてしまったものが、今どうしてここに?」
「メアリがね、使っていない部屋を大掃除していたら出てきたんですって。見覚えがあるなって思って、思い出して、持ってきてくれたの」
ガンマッハはなるほど、と頷いた。するとミュラが、今度は苦笑を浮かべてブローチの入った箱を欲しがるように手を伸ばしたので、ガンマッハはそっと返した。
「……あの時、どれだけ探しても見つからなかったのに、今になってひょっこり見つかるなんて。何だかおかしいわよね。でも、そういうものなのかしら」
「そうかもしれません。探そう、見つけよう、とすると見つからず、何気ない時にふっと出てくる、そういうことはままあることだと思います」
ガンマッハも苦笑する。数年を経てミュラの手元に戻ったブローチ。どうやら綺麗に磨かれたようで、年月のくすみは多少見られるものの、綺麗になっている。
「……でも、見つかって良かった。ピンがね、壊れてたの。なくしてしまった時も、やっぱりピンが壊れかけていて、それで取れてしまったのかしら」
「今度はなくされないように、その箱に?」
「ええ。でもブローチはしまっておくものじゃなくて身につけるものでしょう? だから、時々付けて、付けない時はここにしまっておくわ」
本来、ブローチはそういうものだ。毎日つけるとすれば、よほど大事でお気に入りなものだろう。幼い頃のミュラにとって、そのブローチはまさにそれだったのだが。
「大切なものだけど、もうなくしたくないもの。だから、決めた場所にきちんとしまっておくの」
「……そうですか」
蓋をしめたブローチが納まるその箱を、ミュラは優しくなぜる。それを見て、ガンマッハは内心気恥ずかしくなる。それほどまでに大切にしてくれることに。
「……ですが、今、身に付けるのでしたらそれは少々幼くはないでしょうか。……宜しければ、新しいものをお贈りいたしたく思いますが」
「………………いいわ」
ガンマッハの言葉に、ミュラは少し思案する顔になり、それから小さく笑って首を振った。
「貴方の好意は嬉しいけれど、私はこれがあるから十分です」
「ですが……」
「いいの。これがいいのです」
言い募ろうとするガンマッハに、珍しくミュラが強めに答えた。時折彼女は、誰にも抗えない強さを見せる時がある。箱を両手に持って、にこりと笑う。
「それでなくとも、貴方からはたくさんの、色々なものを貰っているわ。感謝の言葉では足りないほどに。……いつも有難う、ガンマッハ」
それは、物だけではなく、言ったとおり、ありとあらゆるものを指している。言葉であり、行動であり、想いである。ミュラの真摯な言葉と微笑みに、ガンマッハは心が満たされる想いだった。
「だから、ね。新しいものはいいわ。それに……」
「それに?」
「……いいえ、何でもありません。そうだわ、貴方が来たのに紅茶も出さないでいたわね。今用意してもらうから、少し待っていて」
ミュラは言葉を止めて近くのベルを取る。それを軽く鳴らせば、扉の向こうに控えていた侍女が静かに入ってきた。ミュラはお茶の用意を頼み、侍女は入ってきた時と同じように静かに出て行った。
「──────それじゃ、今度は貴方の話を聞かせて? 街の様子はどうだったかしら」
「はい、それでは──────」
ガンマッハは先ほどの、ミュラが言いかけた言葉が気になったが、ミュラ本人が言いたくないのであれば、聞こうとは思わなかった。聞きたいのは山々だが、無理に聞くのは良くないだろう。しばらくしたら、話してくれるかもしれない。そう思ってガンマッハは、ミュラにここ最近の出来事を話し始めた。ガンマッハにとって、ミュラとこうやって話す時間は何より大切なものだ。その時間を減らしたくもない。
それから、あたたかな紅茶が運ばれ、心地の良い柔らかな日差しの差し込む部屋で、何にも代えがたい時を過ごした。
──────後に再びブローチの話が持ち上がった時、ミュラからあの時の言葉の続きを聞いた。淡く頬を染め、はにかみながら、笑わないでね、と一言断ってから彼女は言ったのだ。
「貴方が、誕生日やお祝い以外でプレゼントしてくれた、初めての物だから。だから、思い出の宝物なの」、と。
ミュラさんは若いながらも女王として毅然とした姿勢を崩さない人だなぁと思うのですが、どうにも私が書くとごく普通の娘さんになってしまうような。気心しれたガンマッハの前だから、と言うのもあるかもですが、むしろガンマッハの前ならなおさらあからさまに甘えることはしないよなぁとも思いつつ。
それでも年頃の娘さんなミュラさんと、そんなミュラさんの一挙一動に幸せな気分になっているガンマッハさんが書けて楽しかったです。