あれは伝説の塔、スペクトラルタワーに挑戦した時だった。
鈴魚と極楽丸にシローのムロマチ組、そして回復役にネーブル。この4人で塔を登った。
出発前、お目付け役の蓮撃が、このメンバーで塔を登るなんて危険だと言っていた。何でかって、手強いモンスターがうようよいる中に大事な君主を行かせるなんてそんな危険な!………などという訳ではなかった。
むしろ逆に、このメンバーだと、ネーブルはきっとマイペースにトレジャーハントをするだろうし(何せ古で伝説の塔だ)無鉄砲で奔放で我が侭な鈴魚と、その姫君に次ぐ豪快で、さらにはで好きな歌舞伎者極楽丸だ、放っておいたら下手をすれば塔を崩壊させるほどに暴れるかもしれない。そしてそれを押さえる役目を必然的に担うのは小さなお付きの忍のシローだけだ。
まずはっきり言って止められるわけがない。
自分が一緒に行く!といったのだが結局、鈴魚に押しきられて、渋々引き下がった。
もちろん、鈴魚には厳重注意をし、極楽丸には迫力をこめて年長者としての自覚と臣下としての務めをはたせと説き伏せ、弱気なシローにも発破をかけた。それからネーブルにくれぐれもよろしくと頼んでみたが、ネーブルはのほほんのんびりした笑顔で『わかりました』と答えていたので、蓮撃としては物凄く不安が残っていたらしい。
取り合えずそんなお目付け役の心労は今回あまり関係ないのでおいといて。
順調に一同は塔を登り(途中必殺技をぶっ放し続けていてあちこちに大穴あけてきたが)、無事に現時点で登れる最上の階、100階へ辿り着いた。
そこには、祭壇に、大事に大事に祭られるように何かが入った箱がおいてあった。鈴魚が興味本位でその箱を開けて見ると、そこには透き通った水のようにも、燃え盛る焔のようにもみえるような手の平大の珠がかざられた首飾りが入っていた。
手にもてばひやりと冷たい。その、光にも当てていないのにまろく輝く珠を一同は手にいれた。
だが一人、シローはその珠を、怪訝に見つめていた。
全身がさわさわと落ち付かない緊張に包まれたような感触を受けながら。
黙って見ていた。
ムロマチ軍が大陸の4分の3程を支配した頃だった。
南西部を新生シンバ帝国軍と争っていた魔皇軍を倒し、君主であった闇の皇女と呼ばれるロゼを仲間にした。それからしばらくたってからだ。
「お、ロゼ、どうしたのじゃ?ぼんやりと外なぞ眺めて。何かあったのか?」
これから街へ探索に出掛けようと思っていた鈴魚が、廊下で、大きくとった窓枠に手をついて外をみていたロゼに声をかけた。
「………いえ、何でもないわ。ただ………」
少しぎこちなさそうに笑みを浮かべるロゼを、きょとんとして鈴魚は見上げる。
「………何だかね、胸騒ぎがするの。落ちつかないっていうか…」
「胸騒ぎ?………確かにロゼはすれんだぁなように見えて実はこっそり胸があったりするからのう………」
「………あのね。」
ずれた答えにロゼは脱力する。鈴魚もやはり御年頃であるから、己のプロポーションなどが気にかかるのである。確かにロゼはさりげなく、そこそこ、あるほうだ。ありすぎるわけじゃなく締まるとこ締まっていて出るとこ出ているのでバランスがよいのだ。
「そうじゃなくて。………こっちの方角、そうね、港町ニハレスよりももっと北の方から力を感じるの。以前から感じてはいたんだけれど、何故かしら、あなたの軍下に入ってからそれが強くなったわ」
「ニハレスの北?という事は………えと、確か、永久凍土とかいうのがあったな。シンバ帝国が作ったとかいう噂じゃが、よく分からぬ場所じゃ」
「そう、そこから………何かしら、何処かとても、焦がすように熱い感じがするの」
「焦がすように熱い感じ………」
ロゼの言葉に、鈴魚はうーむと腕を組んで考える。そしてやおら、ぽんと、手の平を叩いた。
「分かったぞ!ロゼよ、それは『恋煩い』じゃ!よくいうじゃろ、身をも焦がすような熱い恋と!きっとそこにはロゼの想い人がいるんじゃ!」
自信満々にいう鈴魚に、ロゼ、本日2度めの脱力。がっくりと膝から力が抜けそうになり、窓枠に腕をひっかけて頭を項垂れた。
「………冗談じゃ。何もそこまで脱力する事なかろうに」
「あのね………」
それはともかくとして。
「え?これから永久凍土へ?」
各国の情報をまとめた資料を整理しながらシローがいった。
「そうじゃ、ロゼの想い人に逢いに行くのじゃ!」
「違うでしょ」
鈴魚の言葉にすかさず突っ込みを入れるロゼ。
「でもまた、なんでですか?永久凍土っていったらここから3、4ヶ月はかかりますよ?」
「じゃからロゼの想い人に………」
「その話はもうやめなさい」
そのふくよかで愛らしい頬を、ロゼの細い指先が軽くつねる。
「ふぇ、ふぇーとふぉ、んむ、ロゼがそこから強い魔力を感じるというのじゃ」
痛みに我慢しながら喋ろうとするので、ロゼはため息をついて離してやる。こうしていると何処か姉妹のじゃれあいのようにも見えて微笑ましい。
「大方、シンバ帝国が何かを隠しておるんじゃろう。ロゼの精神安定のためにも、一度調べに行こうではないか!」
「・・・・・・・・・・・・・・・物凄く思うんですけど、もしかして単に永久凍土がほとんど知られざる地で、何があるのかわからない、そんな未知の島を探索するのはおもしろそうだなぁーとかそう言う理由じゃないですよね………?」
シローが物凄く疲れたような表情で問い掛けると、鈴魚は笑顔で視線を明後日の方向へ向けた。
「…取り合えず蓮撃様にきいてみましょう、勝手にいったらまた怒られますよ?」
「蓮撃にいったら行かせてくれるぬではないか!」
「シロー君の意見に私も賛成ね、何年たってもあの人は貴方の御目付け役なんですから、それに君主は自分勝手な行動は慎むものよ?」
ロゼがシローのフォローにはいったので、鈴魚はそれ以上押しとおすことができなかった。
『…永久凍土、か』
ふとシローは北の方へと思いを馳せる。謎に包まれた場所、永久凍土。
どんな場所かは資料でよんだ程度でしか分からない。
だがしかし。
シローも彼女と同様、何故だか落ち付かない気持ちを内包していたのだった。
やはりと言うべきか、蓮撃は反対した。
調べにいくのならば、他の者達に任せた方がよいでしょうという至極もっともな言葉にそれでも鈴魚は抵抗した。もう途中からは、半ば意地だった。好奇心よりも蓮撃から行ってもよいという承諾を勝ち得る事の方が大事になっていた。
結局。
事の発端のロゼも一緒に行き、鈴魚のたずなを握ると言う形でなんとか了解を得た。
元々行くつもりであったし、鈴魚の面倒も見るつもりだったのでロゼは快く了承した。蓮撃としては、まだこの軍に入ってそう長い付き合いとはいえないロゼに任せるのは少々抵抗を覚えたが、ロゼはきちんとしっかりとしているし、それに少し前まで大軍を統治する地位にいた。彼女を見て鈴魚も見習うべき事が沢山あるのに気付いてくれれば万々歳だし、なによりその鈴魚本人がロゼには懐いていた。
自分が行ければ一番いいのだが、あいにく明日から別の地の視察でいけない。………もしかして鈴魚はこれを狙っていたのだろうか。
ともあれ、一同は永久凍土へ行くこととなった。
今回のメンバーは鈴魚、ロゼ、やっぱりシロー。鈴魚のお気に入りは昔からずっとかわらない。
そして回復役に今度はプリムローズが抜擢された。
ネーブルは、と言うと魔皇軍の領土を得た時に、シーフタワーで再会した昔馴染みのミュールと一緒に現在近くの遺跡をトレジャーハンティング中である。
プリムローズは出掛ける際に、竹蘭に念を押してしっかりと、相方のメトロノーゼの事を頼んでいた。
自分がいない間にまた何処かに勇者グッズをもとめ脱走するかもしれないからくれぐれも無駄遣いさせないようにと。ジグロード自治軍時代からのメトロノーゼを知っている身としても、竹蘭は心強く請け負ってくれた。
余談はおいといて。
『北の玄関口』といわれるほど貿易が盛んなニハレスの港でも、永久凍土へなんて普通は船は出ない。そんな辺境の場所にある地だ。おまけにまるでその地への道をふさぐかのように海流は複雑で、よほどの熟練者でしか通ることができないらしい。それでも何とか探し回って見つけ、頼んだのだ。もちろん報酬は法外なものになったがこの際仕方がない。
漁師や商人といった、そんな己の腕だけが頼りの、枠にはまらない者達は、国からの要請だといって圧力をかけようとしても簡単には請け負わない。むしろ頑なに拒否する者が多い。それに元々無理強いをする気も鈴魚達にはなかったので(鈴魚はごねていたがロゼたちが止めた)、請け負ってくれる船を見つけたのは本当に偶然で幸運だった。
そうして一向は、永久凍土の地を踏んだのだった。
「どうじゃ?ロゼ」
今日は海流が複雑であっても、波も風も比較的穏やかで、そこはかとなく整理されているような岸辺に船をつけた。自然にできたものではなく、明らかに人為的なものを感じるとはいえ、人が寄り付かなくなってかなり時間がたっている事を裏付けるように、雪や氷でできた突起物が並び、風の吹き溜まりとなったところには雪が風の動きを示すような形で積もっており、強い波や流氷で削られたあとがそここに見受けられた。
そうして、一同が奥へ行くとき、船長が、海の天気はいつ変わるかわからないから、なるべく早く戻るように言っていた。
「…そうね、どんどん強くなっていくわ。間違いなくこの奥にこの魔力の源となるものがあるわ。それが魔具なのか人物なのかはわからないけど…少なくとも、私達を歓迎はしてないみたい」
「ぬ?」
「魔力に明らかに拒絶の意思を感じるのよ。この地に踏み込んでそれが強くなった。いったい何があるのかしら…」
鈴魚の問いかけにロゼは思案顔で目をわずかに伏せる。先ほどからずっと、肌がぴりぴりとするような、体の奥底にくすぶる炎を感じるような感触を受けている。
「造りから見て…多分この永久凍土って何かの封印の場所みたいね。もし本当にシンバ帝国が関係しているのだとしたら、かなり危険なものじゃないかしら…?」
プリムローズは、周りを見回して、白い息を吐きながら言う。自然にできているような氷の壁は、よく見れば人為的に作られたものに、長年の氷と雪が付着してしまっているものだ。しかし、それゆえになおさら人を拒むように見えてくる。
「ふっふっふ、望むところではないか、それほどまでに厳重にしまっておくからには相当なものよな、この鈴魚が暴いて見せようぞ!」
「鈴魚、気になるからって無闇矢鱈に何でもかんでも勝手に暴いたりしちゃいけないっていったでしょう」
ずびしと、意気揚々となっている鈴魚にロゼが突っ込みを入れる。
「何を言うか!ロゼが言うほどやってはおらんぞ!」
「という事は、少しはやってるってことよね」
にっこり笑顔で、いつの間にか相方となってしまったメトロノーゼの行動に突っ込みを入れるのが日常茶飯事のプリムローズが、それを遺憾なく発揮する。ロゼとプリムローズの二人の突っ込みに鈴魚は思わず言葉をなくして押し黙る。図星だ。
「でもまぁ、ここまで来てしまったのだし、私も気になるし。状況によっては知りたい事だけを最小限見せてもらって戻りましょう。拒絶するものを無理に日の下に連れ出してもそれは迷惑でしかないわ」
「むぅ…」
そういわれてしまっては、返す言葉もない。
「?シロー君?どうしたの、さっきからずっと黙ってて」
ふと、後ろからついてくるシローにプリムローズが声をかけた。
「え?あ、な、何でもないです!ちょっと寒いなぁって思ってただけで…」
弾かれるように顔をあげ、シローは首を思い切り左右に振った。そうしていつもの少し気の弱そうな、眉を下げた笑みを浮かべる。
「そうね、確かに本当、寒いわ。私はずっとシリニーグの方で育ったし、ジグロードもここまで寒くなかったから、少し堪えるわね」
「ジポングは四季の移り変わりが激しくて、暑い時と寒いときの温度差がすごいんですよ、でも、僕のところもここまでは寒くないですね」
何気ない会話をやり取りする。言いながら、シローは胸元あたりを抑えた。服の下の、首から下げているもの。それを確かめるように。
スペクトラルタワーで見つけた、あの首飾りだ。
これを見つけた時、あまりにもじっと熱心に見ているように思われたのか、シローは鈴魚からその首飾りをもらっていた。初めて見た時は、何だか少し落ち着かない感じを受けたのだが、受け取ってしばらく見ていると、次第に暖かいものを感じるようになってきた。それから何となく手放されいつも持ち歩いていたのだ。
それが、妙に温かい。
そして同時に、またあの、さわさわとする落ち着かない感じがしてきたのだ。
ロゼと同じように、シローもその魔力を感じていた。どこか拒絶する、焦がすような魔力。
『なんだろう…』
胸が締め付けられるような感じもしてくる。奥からせり上がってきて、息苦しくさえ感じるのだ。そういえば、先ほどから己の両手首もちりちりと熱い気がする。
不可思議な、目に見えないものに包まれているかのように、不安と、疑問と、そしてそれに対する怯えがシローを襲う。
気持ちが悪い。
口元を押さえ、僅かに顔を青ざめる。
いったい何があるというのだろうか。
この奥に。
いったい何が。
「…ぬぅ?」
不意に鈴魚が声をあげた。
「何じゃ、これは?」
パタパタと走り、立ち止まる。あとをおっていってみれば、目の前には厚い氷の壁が立ちふさがっていた。
「行き止まり?」
「そんな…」
高くそびえ立つそれを見上げながら、僅かに落胆する。どこかで道を間違ったのだろうか。だけれど、ここまで来るのにどこにも他へ行けそうな道などなかった。おおよそ一本道だったのだ。それなのに、これ以上は行けず行き止まり。だけれどその魔力の元となるものはここにはない。
「…いえ、違うわ」
その壁に歩み寄り、手袋越しにひたりと手をあててみる。
「…この向こう側だわ。この壁は多分中のものを封印しているのよ。今まで以上に魔力が強い…!」
顔を顰め、ロゼは壁から手を離した。封印されているものだろうに、それすらも通り越して溢れ返るほどの魔力なのだろうか、触れていただけで圧倒されるものを感じた。
危険だ。この中にあるものは、例え何であれ、とてつもなく危険なものだ。
「では、この封印を解くにはどうしたらいいんじゃ?周りにそれらしきものは何もないぞ?…いっそ予の皇竜轟雷掌で…」
「やめなさい。」
ぶち壊そうと構えを取ったので、額を抑えつつ止めに入る。
「でも本当にどうしましょうか。たとえ炎の魔法を使ったとしてもこの氷はきっと溶かせないでしょうね…」
それでも四源の内の一人、炎の界聖の彼女の操る炎ならばどうだろうと思いをはせてみる。
「うーむ、シロちゃん、シロちゃんの炎術でも無理かのう?」
プリムローズの台詞に、鈴魚は自分の知っている限りでは三指に入るであろう炎術師に声をかける。だが。
「シロちゃん?」
返事がないので振り返ると視界に入ってきたのは、蹲る少年だった。
「ど、どうしたのじゃ?何処か怪我でもしたのか?」
「シロー君?!」
かけよってみれば、表情が驚くほどに青い。嫌な冷や汗を全身にかいているようで、寒さ以外の寒気を感じているのか、きつく体を抱えこむように腕に力を入れていた。防寒具の袖口から僅かにのぞく、その両手首の鎖のような痣が熱を帯びるように薄く発光している。
「…だ、大丈夫、です。ちょっと…少し気持ち悪い、だけ、で」
囲まれるようにされて声をかけてくる3人に、それでもシローは吐き気を堪えて青い顔で無理に笑みを作る。だが、安心させるように作ったそれは逆に痛々しく、3人とも眉をひそめた。プリムローズが手袋を外し、シローの額に手をあてる。案の定、熱い。
「やっぱり熱があるわ。…さっきから気分が悪かったのね…、ごめんね、気がつかなくて…」
申し訳なさそうにいう彼女に、シローは弱々しく首を振った。
「………もしかしてここの魔力にあてられてしまったのかしら。取り合えず一度引き返しましょう。こんな所じゃシロー君を休ませれないわ」
そういってロゼが立ち上がった時だった。
ぐ、と防寒具の袖を引っ張られる。見ればシローが俯いたまま、自分の袖を掴んでいた。
「………大丈夫です、それ、よりも………」
胸元を押さえ、シローは苦しげな声を発しながら立ち上がった。
りぃ、りぃ、と何かがなっている音が小さく聞こえた。
「………なんじゃ?この音は」
耳に届いた音の元を探す。不意にシローが気持ち悪さを押さえこむように歯を食い縛りながら、ごそごそと首の辺りを探り、服の中から何かを取り出した。
「………それは」
スペクトラルタワーにあった、首飾り。
透き通った水の塊のようなそれ。いうなれば氷を思わせるような。
それが、なにかに共鳴するかのように、りぃ、りぃとなっていたのだ。
「首飾り…?」
何故だかひかれるように、ロゼはそれに指を伸ばし触れてみた。
その瞬間。
「!?」
ぼう、と首飾りの珠がまろく輝きだした。驚いて反射的に指を離したが、ふれた瞬間、ロゼの中に何かが流れこんできた。
強烈な衝撃でもなく、痛みでもない。
酷く、酷く、暖かいものだ。
「………ロゼ、さん」
それをもっていたシローも同様なものを感じたのか、青い顔をしつつも、ロゼを見上げてきていた。プリムローズと鈴魚は何が起こったのかわからず、ただそれを見守るだけだった。
シローはそれを首からはずす。そうしてロゼの方へと差し出した。僅かな逡巡のあと、ロゼはその細い手をのばし、重ねあわせるように首飾りへとのせた。
「………!!」
洪水のような荒々しい流れではない。
されど、圧倒されるような記憶の流れだった。
とてもとても、胸詰まるような暖かい記憶の流れが、一気に二人の中へと流れ込んでくる。
誰かの一生を湛えた水の流れ。
誰かが想い悩んだ心。
幾度傷付きながらも、それでも感じずにはいられなかった、切なさと優しさだ。
まるで古い物語を聞いているかのような、どうしようもなく沸きあがる哀愁と、確かに伝わる深い慈しみの気持ち。
そんな、幾多の感情が混ざり合ってなお、暖かいと思えずにはいられない、記憶。
「………あ………」
ぽたり、と、涙がすべらかな頬をつたった。
寒いこの氷の地でそれは、すぐに凍る。しかしそれでも、涙はとまらなかった。
「………これは………」
切なくて愛しくて、どうしようもなくたまらない気持ちだ。
まるで誰かの思いをつめこんだもの全てを受け取ったかのような。
手の中の首飾りの珠が暖かい。何かを囁きかけているかのようだ。
「………」
シローは涙もぬぐわずその首飾りをロゼに渡す。
ロゼは受けとって、涙をぬぐい、そして氷の壁の元へと歩き出した。
「………」
そうしてそっと、ロゼは壁に手をふれた。
「………あ………!」
するとそれは、ご、ごご、と鈍い音をたて、ゆっくりとその荘厳で圧倒する姿を割り開いたのだった。
「………!?」
氷の壁があき、驚き喜んだ刹那。
ぶわり、とこの地では有り得ぬ熱風が4人の全身を弄った。
「な、なに………?!」
息詰まるような、魔力のこもる熱風だ。しかしそれも一瞬で、一陣の風が過ぎ去ったあとはもとの静寂が戻る。だが。
「!!」
今度は押し潰されるようなプレッシャーが襲いかかった。
先ほどの熱風に感じられた魔力と同じ力が、扉の奥から否応無しにつたわってきた。
「うぐ………っ!」
その魔力の圧力を受けたとたん、シローは激しい嘔吐を覚える。身の内からせりあがる、なにか別の生き物が己の中にいるかのような、そんな圧迫感だ。まるでその魔力に呼応するように、ずるずると這いずりまわっている。
「…何者じゃ!!」
鈴魚が一歩踏み出して、扉の奥にいるものに叫ぶ。
人か物か。何かは分からない。だけれど、腕に覚えのある己すらも圧倒するかのような魔力を秘めたもの。
ざく、と音がした。足音だ。それに一同は身構える。
氷の部屋の奥から、ゆっくりと歩き近づいてきて、眼前に姿を現したそれは。
「誰だ…我が眠りを妨げるものは……」
焦げ茶の、少し伸びはじめたような短い髪。
尖った耳に赫い瞳。
白と焦げ茶で構成された衣装。
異形の、骸骨を形作る左手の魔族の女性。
そして右手に携えるは赤黒い鎌。
女性の姿を見た瞬間、シローは言い知れぬ懐かしさを覚える。
まったく知らない相手だ。彼女に似た人、と言うのも知らない。
だけれど、酷く懐かしい想いが沸きあがるのだ。
女性が感情のない瞳で一同をみやる。ロゼを目にとめて、僅かに細めた。
「…そうか、封印をといたのはお前か………なるほど、私と同じ匂いがする………哀しい、血の匂いだ………」
言われて、ぞくりとロゼは寒気を感じた。
その声はまるで、先ほどの珠から感じた想いとは真逆にあるようなほどに冷たく聞こえたのだ。
「………お主は誰じゃ!!」
指をつきつけて、鈴魚は女性に問いかける。すると、感情のない瞳に、少し色が生まれた。笑いを含んだ色だ。
「…しかも龍の血を引く者も一緒か。………あの時の子が大きくなったものだ」
「何?」
最後の方はほとんど呟きで、鈴魚の耳にはぼそぼそとした音でしか聞こえなかった。
「………」
この、果てしなく圧倒される雰囲気。あの赤黒い鎌は魂を狩り取るものだと、あれとそっくり仲間を持っていた少年がいっていた。
「…まさか………死神………?」
「………そう呼ばれるのも久しいな」
小さく笑って、再びロゼをみた。そうしてその視線は、彼女の後ろにいた、青い顔をしたままのシローに届いた。視線がかち合う。
「………!!」
極僅かに、息を詰めた。
野山の色の一つのくすんだ緑色の髪。
膝をつき、青い顔のままこちらを見上げる琥珀の双眸。
ああ、自然を想わせる色だ。大地を感じる色だ。
─────────何よりも愛しいあの色だ。
その様子を、シローは熱にうかされたような頭の中で怪訝におもう。
自分を見て驚いたようだった。
ならば、彼女は自分を知っているのだろうか?自分が覚えていないだけで。本当は。
ふるり、と女性は頭をふるった。視線を少年からはずす。
そうして鎌を前に構える。
「………来い」
「え?」
「………私如きの力に震え上がる貴様らの弱さの罪だ。そんな剣で誰を殺す。何を生むと言うのだ」
「………っ!」
「………そして何より、憎しみの瞳では何もうつらない………。例え、私と同じ血だとしてもあの封印を解くのならばと思ったが………お前はあの時の私と同じ目をしている。それでは何もかわらない。何もうつらない」
その囁きにシローは胸が絞めつけられる想いがした。
先ほど流れこんできた記憶の中に、その想いに似た記憶を感じ取ったからだ。
だけれど、それでも。あの記憶は、暖かかった。
「………来い。私が終わらせてやろう。呪われた運命の全てを絶ち切ってやるよ!!」
それはまるで、己自身に叫んでいるかのようだった。